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わが地元宮崎は日南の紹介①

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 帰省する前に言ってた「地元散策」なんだけど、個人的には不満足な形で終わりました。というのも、本免をクリアした翌日から悪天候の連続で、結局一週間いた内の三日しか晴れませんでしたwそんな中親の車でドライブをほぼ毎日やってたんだけど、なかなか散策を実行でできない日々が続く…(→やっぱ晴れてなきゃ良さが見えないかと)。で、とうとう痺れを切らして雨天にもかかわらず油津(※カープがキャンプインするとこ)に行ってみました。

 自分の実家は宮崎の日南、県内でも温暖かつ雨量の多い地域にあります。その日南を語る上で欠かせない町が「飫肥」と「油津」。日本史的にはマイナーなんだけど、薩摩・大隅の島津氏と日向の伊東氏の争点となったのが、この「油津」。両者ともここを手中にしたかった理由は、「油津」が天然の良港で古来以来の貿易拠点地であったことにあります。港自体は古代よりあるらしいんだけど、この両氏が争った時代は、戦乱で瀬戸内海ルートが一時衰退したこともあってか、南の海路(近畿~土佐~日向・薩摩~琉球)が発展しました。また折からの南蛮貿易の進展で海外(ポルトガルなど)からの船も寄るように。そういった流れの中で、南九州にある「油津」の存在は重要さを一層増したため、両氏の喉から手が出たんですね。

 貿易の衰退によって江戸期の「油津」は一時衰退したけど、今度は全国各地で木材需要が増えたことで、地元の杉(飫肥杉)を各地に輸送して藩財政を潤しました。ただ、「飫肥」・「油津」間は少し距離があるため、川を経由して港への運搬の効率をさらに高くするため「運河」の開削が考案されました。これが男はつらいよのロケ地になった「堀川運河」です。明治に入っても木材の需要は続いたけど、やがて造船技術が向上し、戦後需要は薄れていきます。ただそれまでの明治・大正・昭和前期は大いに賑わいを見せていたようです。積出港としてだけでなく、1930~40年ごろにはマグロの水揚げがピークを迎え、東洋一のマグロ漁港として全国に名をとどろかせました。

 そんな「油津」も戦後しばらくは活況を取り戻したけど、日本が高度成長期など迎える中、漁業の衰退は深刻になり、現在では見るに耐えない状態です。商店街なんてほんとにひどい有様だもん。親の時代まではなんとか繁栄を保っていたらしいけど、僕らが子供時代にはすでに衰退の一途をたどってましたね。今は王子製紙の生命線である木材チップの積上港として機能してます。一方の漁業は東南アジアからの留学生を加えないと成り立たない状況…このご時勢だからなあ。今後どうすれば生き残れるか、上で述べたようにいろんな変化に対応して繁栄してきた「油津」だけど、正直かなり厳しいだろなあ。けど、そんな中若くしてがんばってる漁師さんもいるし、まだあきらめるのは早いかも。ちなみにうちの父の家系は海関係(南郷の「目井津」)です。親父は漁師じゃないんだけど、主に貨物船の入港の際の先導を、おじいちゃんは漁師やった。そんな流れを断ち切ってしまうことに、悪いなあと思うことも多少あり。代わりと言っちゃなんですが、別の形で地元の活性とか保存に役立つような仕事ができたらななんて甘い考えを抱くことも。

 写真はまず取る場所が悪い○rzほんとは油津港全体を見渡せるような場所で撮りたかったdespairあと「飫肥」については今回は省略、またの機会に。肝心の「堀川運河」も出口しか撮ってませんsweat01天候のいいときに…と思ってたら、もう暇がなくて結局撮らないまま。ぜひ紹介したかたんだけどなあ。リンクだけしとこ。

 

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①枚目:赤レンガ館/②枚目:レンガ館の説明/③レンガ館内部/④枚目:向かいの杉村商店…珍しい木造三階建て→当時の油津商人の繁栄がしのばれます

⑤・⑥枚目:油津港/⑦枚目:チップの山/⑧枚目:堀川運河が港へ出るところ(番号は左から順に)

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