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わが地元宮崎は日南の紹介⑥-2

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 三つ目は飫肥城跡。写真は大手門(とその手前に空堀)で、ここをくぐると、本丸や御殿があった城跡へと道が続いていく。とその前に、少し簡単に中世以降の飫肥の歴史を紹介してみようflair

 まず、戦国初期は、昔から薩摩に勢力を張っていた島津氏が飫肥にも拠点を築き、ここに新納氏を派遣した。それに対し、伊東氏も日向国内で徐々に勢力を拡大していった。日向にも勢力を拡大したい島津氏と、日向国内で大名として地位を確立したい伊東氏、両者ともに重要視したのが飫肥だった。理由は油津編で言ったように、主に天然の良港を持っている点で、互いに是が非でも支配下に置きたい領土だったらしい。そうして戦いの火蓋が気って落とされ、約100年に渡って飫肥をめぐって両者激しく争うことになる…(中略)…結果として、伊東氏は島津氏に負けたんだけど、最終的には秀吉の九州平定の際、味方についた伊東氏に飫肥が与えられ、関ヶ原では東軍に味方したことで江戸時代でも飫肥を安堵された。結局、飫肥は二転三転あったものの、明治の初めまで伊東氏が支配することに。。。
 てか100年も飫肥をめぐって争うとか、すごい執念だなあ(;・∀・)こういう複雑な経緯があるから、地元民の意識としては、われわれは元々島津方だったんだって言う人もいるかもね。でも個人的には伊東方かなー。ま、今時誰もそんなこと考えてないかw
 17世紀半ばに地震のせいで建物が倒壊し、今のような城跡になったっぽいけど、ほんとかな?その辺ちょっとよく分かりませんでしたsweat02もう少しちゃんと調べんといかんね。。。もし昔の城図が残ってるなら、いつかは櫓や本丸や各出城etc..復元して欲しいなあ。


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 写真では分かりにくいかもだけど、城の深部へと続く階段の幅に注目すると、普通より一歩一歩が広いんだよね。自分のむかーしの記憶によると、馬の歩幅に合わせてるとか誰かが言ってた気がする。あ、あと四角や丸い窓は鉄砲を放つ窓だったとかも聞いたことあるわ。これ合ってんのかな?w

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 左写真…松尾の丸(江戸期書院造の御殿)。御座の間や茶室や湯殿などで構成されており、当時の生活を想像させてくれる生活空間がリアルに演出されてる。写真はスペースの都合上カットでw
 右写真…飫肥城歴史資料館。今回は入れなかったけど、確か甲冑やら武具が展示されてあった。城まで来たんなら、ついでに覗いてみたほうが得々eye

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 松尾の丸を降りたその正面が本丸跡地で、今は飫肥小学校(中学校もすぐ傍)がある。で、その小学校を右手にさらに奥へと進むと、石垣に囲まれた段の高くなったスペースが登場。しかも、そこにはたくさんの杉が林立してる。実はここも城跡(旧本丸跡)らしい。普通はここまで観光客も来ないけど、「NHKの連続テレビ小説 わかば」で使われたげなeye 古い石垣や門や階段があって、またコケがいい味出してんのよね~(*´ェ`*)個人的には大手門とかよりここのほうが好きだわnote

 

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 そうそう、この鐘楼で思い出したわ。毎年、10月下旬に飫肥城下祭りが二日間やったかな?開催されて、特に中学校の頃はよく連続で行ってたね。その頃は友達と遊ぶことばっかで、不思議と異性とかあんまり考えんかったわー。友達6、7人くらいで吾田からチャリこいで行って(~約20分)、んで城跡内と大手門通りに立ち並ぶ屋台でご馳走を買うかどうか品定め。その途中に知り合いに会っては、「お~○○!」やら「誰と来ちょって?」やら「○○見た?」やら他愛もない話を。自分の気に入った物を一通り買ったら、写真の鐘楼にみんなで集まって、行き交う客を上から眺めつつ、話しながら食べるのが僕らのお決まりでした。この祭りで一番の美味しいのは、何と言っても「はしまき」sign01うわー懐かしいこつよヽ(´▽`)/

                   
          

     ―つづく―

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