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わが地元宮崎は日南の紹介⑦

 先日約7時間半の旅路を経て広島に戻ってきました。

 いやーほんと長い。。。

 けど、今研究してる時代(大正初期~中期)の交通事情はもっと悲惨だったから、まだ恵まれてる気がするなあ。

 「兒玉伊織日誌」によれば、まず宮崎~博多間まで行くのにまず一日じゃ着かない。早朝に出てせいぜい熊本までが限界っぽい。こんな調子だから、宮崎から上京するには約3日も掛かったそうな。。。
 なぜここまで掛かるかというと、当時の宮崎県の鉄道敷設状況は全国的に最下位レベルだったから。政府の補助金を借りて県営には着手したものの、国営に関してはこれから…という事情があった。明治以来ずーっと行われてきた官民一致の運動の甲斐あって、ようやく(確か)大正5年頃、人吉(熊本)~都城間が貫通するわけで、大正初期~中期の段階では、駅がある県境までひたすら馬車や自動車を乗り継いでいたらしい。
 大正期になってもやはりコネは大事で、「地方利益」を考え行動する代議士や県会議員などの政治家にとって、上京して有力者に請願したり、懇意にすることは、自分にとって有益な政策を実行してもらうに当たってすごく大事だったっぽい。そんげな時代で、かつそんげな交通事情だったわが宮崎県の政治家の方々の苦労を思うと、「てげきちーとん、よぅやんねぇ」と思わずにいられない。。。

 2010年現在、宮崎~博多間は約4時間で行けるわけで、児玉に「贅沢言うな」って言われそう^ ^;

 ちなみに、馬車や車で行って一日も掛かるか?と思うかもだけど、そうは簡単に解決できない事情が。性能の違いは置いといて、そもそも道路自体が整っていなかった。「日誌」を読む限り、車の業者よりも断然馬車のほうが多いから、当時はまだ車の普及率は悪かったんだと思われ。というわけで、鉄道もない、道路もない、あるのは整備されていない里道という状況では、主に車より馬車を使うしかなかった。だから、ものすごく時間がかかったんだと思う。

 さて、ものすごく前置きが長くなったけど、一応宮崎つながりってことでよしとしよう。

 ようやく本題へ。

 帰省中、美々津には行けず、結局地元・串間・志布志しか行けませんでした。

 でも、地元宮崎にはまだまだ魅力ある場所がいっぱい。

 まずは近場の日南から紹介。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。゜。°。°。°。°。°。°。°。

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 まずは、榎原神社(入り口)。

 読み方は「よわら」。

 なぜここに来たかというと、「日誌」の主人公である児玉伊織も出張の際、度々参拝していたから。ちなみに、地元じゃそこそこ有名だと思う。

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 何の知識もないので、看板の情報を頼りに紹介(というか感想)を。

 榎原神社の歴史は浅く、1858年(万治元)に第三代飫肥藩主伊東祐久が鵜戸神宮(※シリーズ⑤を参照)の神霊を移したのがきっかけで創られた。歴代藩主の信仰は厚かったらしいけど、確かに「領主」の名で江戸期に寄進された燈籠をたくさん見かけた。

 では最初に、1818年(文化13)建立の楼門(鳥居に隠れてあまり見えてない・・)。

 神仏習合を示す上に、地場色(飫肥杉と榎原石を使っているらしい)が強い建築物として貴重らしい。

 次に、1842年(天保13)建立の鐘楼

 当神社で最も貴重らしく、さらに造形的にも県下では数少ない遺構らしい。個人的には、黒と朱色のコントラストが気に入った(・∀・)

 今度は、1707年(宝永4)建立、1798年(寛政10)に改造された本殿

 当初は八幡造りだったものが、権現造りに改造された。そのため、正面からは権現造りなのに、全体を見れば複雑な構造(特に屋根)をしていることから、「八ッ棟造り」と呼ばれているらしい。確かに、横から屋根を眺めると不思議な形をしてて面白い。

 そしてこのマーク。

 地元の歴史好きなら一度は見たことあるだろう「十陽紋」。これは伊東氏(日向)の家紋で、あとは瓦にも紋がしっかり刻まれてた。

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 最後に、「夫婦楠(杉?)」。

 榎原のイメージはやはり「山」って感じで、その山を象徴するような大きい木々が榎原神社の周りにいくつも生えている。とりわけ大きい二本の木が「夫婦楠」と呼ばれ、注連縄が施されていた。写真では一本しか写ってないけど、もう一本同じ大きさの木が向かって右側に生えている。なお、数年前まで樹齢約300年の大杉があったらしい。

 車で通った印象じゃ榎原=山で、ほんと何にもない地域だけど、榎原神社にたどり着くまでの道(参道)や字に注意してみると、微妙に門前町の雰囲気を感じた。当時はどれほど繁栄してたのかな?

 木々の中にひっそりたたずんでいる榎原神社。いくら榎原が辺鄙とはいえ、それでも同社が持つ建築物の価値を考えると、訪れる価値は十二分にあるb

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 続いて、こちらは日南の紹介シリーズ①で撮ることができなかった堀川運河の写真。

 なかなか日中に行く暇がなく、仕方なく日も沈んだ6時ごろ訪れてみた。

 詳しい話はシリーズ①に譲るとして、ついでに吾平津神社(乙姫神社とも)にも行ったから、少しだけ紹介を。

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 同社は、神話に出てくる「吾平津昆売命」(通称:乙姫)を祀っているらしい。そもそも、油津の名前はこの「吾平津」(あひらつ)に由来するとかしないとか。

 肝心の社殿は・・・コンクリート造りで、見る価値はないです><

 「台風銀座」とはいえ、さすがに木造の面影すら残さないなんて…。

 詳しくないから何とも言えないけど、前身はこの姿になる以前(=明治以前、それこそ社歴がいう和銅年間)からこの辺りにあったのかな?多分何かがあったんだろうけど、それは地域の人に尊ばれる程度のひっそりとしたものだったように思われる。規模が小さいものだったから、リニューアルに際して昔の面影を一切残さないような造りに思い切って変えることが出来たんだろう…なんて勝手に考えながら、早や退散。

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 この写真は梅ヶ浜の奇岩。

 自分らにとって初日の出といえば、梅ヶ浜

 中学校時代から、大晦日は友達の家にみんなで集まって過ごし、年越たらとりあえず稲荷神社に参拝。んで、少し仮眠して日が昇る前に起きて、そこから20分以上かけて寒い中必死でチャリ漕いでここに向かった。日が出たら、浜に下りて砂浜に今年の抱負を書いて帰ったっけ|ω・)ナツカシイ・・

 その梅ヶ浜付近にも神社(というか祠)があるけど、もう暗すぎて撮影しなかった。

 今ではサーファーが海月のように浮いていて、ある意味賑わっている浜。

 でも、昔と今の形(浜)はかなり違ってきているらしい。実は、浜や港の変形問題は宮崎県内沿岸部各地で起きているらしく、すごく心配…。

 シーガイアがある一ツ葉付近及び住吉浜は、かつては景勝地だった。「日誌」によれば、児玉らも度々観月会を催して、知事や県会議員、県職員などと交流を深めている。「宮崎県中興の祖」と言われる有吉忠一知事も格別な想いを抱いていたという。こういった昔から地元で大事にされてきた景勝地がなくなってしまうことはすごく寂しいし、この先も不安だなあ・・。

 かといって、旅行業に携わることができず、かつ県外に出ることが決まった自分にはもはやどうしようもないことだけど。。。

いつものようにまとまりがない紹介記事になってしまったけど、ぜひ榎原神社だけでも参拝してみて下さいeye

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