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2011年2月

山陰旅行②―津和野散策

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 浜田のきんたの里に着くやいなや、すぐ夕食を。

 地元でとれるあんこうあじなどの鮮魚、野菜をいただきました。

 1泊2食付きでこの味とボリュームなら7500円は相当安いsign03

 3人とも大満足ヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ

 この後、露天風呂に入って晩酌して早めに就寝zZ

 翌朝は10:00に里を出て、12:00すぎに津和野に到着。

 友達の一人が津和野出身で、今回はムリを言って実家にお邪魔することにeye

 そしたらなんと豪華な昼食が用意されていたではありませんか!!(゚д゚)

 写真がないのは残念だけど、カフェでも開けるんじゃないかと思えるくらい、すっごくおいしかったし、手際もよかったlovely

 帰り際に、残ったご飯に加えて、手作りのパンやチョコレート(バレンタイン)が入ったお土産をいただき、もう至れり尽くせり状態(笑)いや~こちらも相当おいしかったんすけどv

 ただ、「大学生活4年間で何を得たか?」という質問には焦りました(汗)

 「答えは沈黙・・!」(HUNTER×HUNTER的な)

 とはいかず、こちらもマジレスしてしまうという(苦笑)

 そんなこんなで、いろいろ雑談しながら思う存分食べさせていただいた後、津和野観光へ。。。

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 太鼓谷稲成神社

 稲荷マニアの友達曰く「五大稲荷」らしく、その歴史は18世紀後半。

 歴代藩主の信仰が篤く、今では地元住民の拠り所って感じがした。

 ちなみに、本殿から見える川に沿ってたたずむ集落の様子は絶景でした。

 う・・時間がない〇rz

 明日早朝起きなので、これ以降は簡潔に記述していきます(;´瓜`)

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 畳敷きの教会や鯉を見た後、英明寺へ。

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 歴代藩主の菩提寺らしく、その歴史は室町年間から始まるとのこと。

 境内には、あの森鴎外の墓も。

 あと、少しマニアックですが三浦氏(美作国)の重臣、氏の子孫の墓も。 

 しかし、このお寺も荒れ放題だったのが残念・・。

 こうもりがいっぱい飛んでた模様(音的に)。

 一体この寺に何があったんだろう……。

 近くにあるキリシタン殉難の碑はまたの機会に譲り、一行は益田へ。

 MDSで奇跡の3shot!

 でも時間がないので、掲載はパスw

 結局、津和野の紹介があやふやになってしまったけど、、、

 ほかにも、森生家や西周の生家、紙製品を扱う土産屋さんなど、小さい町とはいえ、地方独特の歴史を感じさせてくれました。

 そして、明日はいよいよ卒業旅行。

 地元宮崎を含む、九州旅行に行ってきます。

 素晴らしい仲間と最後の思い出作りか。

 思い残すことないように楽しむぞ。。。

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山陰旅行①―出雲大社と石見銀山

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 今月8、9日に山陰へ男3人で旅行してきました。

 最近気になっていた山陰地方への進出だったから、かなりワクワクしていたのに、まさか焼肉屋さん(3日)にデジカメを忘れてたなんて・・。

 置き忘れて4日も経ってたのに気づかなかった自分が悪い…〇rz

 というわけで、写真は友達の一人からちょうだいしたもの。

 友達は二人ともパシャパシャ撮らないせいか、欲しいとこの写真が抜けてたりw

 でも、その分自分が所々登場してるし、要所々々の写真は頂けたので、ありがたく活用させてもらい、細部は写メと文章でどんげかします ノ

  ※二日とも天気が悪かったので多少修正・掲載

 さて、西条から車を飛ばすこと約3時間半。

 出雲に到着rvcar

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 出雲そばを食べたあと、出雲大社へ。

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 大正年間に作られた巨大な鳥居をくぐり、松の木が立ち並ぶ参道を進んでいくと、ようやく大社の入り口が出現。

 大社にたどり着いて重要なことに気づく。

 まさかの改修中w

 どんだけついてないんだ・・。

 これで改修に立ち会ったのは、銀閣、八坂神社、姫路城に続く四件目。

 仮御殿で初詣を済ませ、おみくじを引いてみた。

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 結果はご覧のとおり。

 「何事もほどほど」

 何か自分の人生を表してるようでやだなあ(´・ω・`)

 本殿が見れなかったのは残念だったけど、注連縄の迫力を間近で拝めたし満足です。

 改修が終わったらまた行こ。

 大社を出て、なんとなーく脇道へ向かう三人。

 するとそこには稲荷社が!!

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 都稲荷社

 どうですか、この朽ちっぷりw

 大学3年の夏に奇妙な(というか粗末な)稲荷神社に会って以来、すっかり粗末な稲荷神社に興味を持つようになった自分たちにとってはかなりおいしいスポットでしたb

 写真はないけど、お世辞にも清潔さは感じられない。

 一番奇異に感じたのは、拝殿の後方に首なし狐が無数にちりばめられてある光景。

 実は、出雲大社付近にはいくつか稲荷社が存在しているらしく、ここはその一つだとか。

 出雲大社付近の稲荷社の中でも由緒はあるらしいのに、誰も来ないし、清潔さはないしで残念な感じ。 

 その後、古代出雲歴史博物館に約1時間立ち寄り、次に向かった先は世界遺産に登録されて間もない石見銀山

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 曇天から雨天へと変わり、着いた時点ですでに4時半。

 唯一見学できる龍源寺間歩(まぶ)にはは入れなかったけど、それでも入り口まで進むことに。。。

 天候のせいかもしれないけど、着いて少し歩き出しただけで急に寒気がした・・。

 寒かっただけかもしれないけど、ものっすごく不気味な感じがして息苦しかった。

 暗かったし運動不足のせいだったのかもしれないけど、ほんと不気味不気味で……(ry

 あの静まり返った銀山(大森)集落の不気味さは、思い出すだけで恐ろしい…。

 その石見銀山は結構知られてると思うので、簡潔な紹介にとどめておきます。

 鎌倉末期に発見されたらしく、大内→尼子→毛利→毛利・豊臣の支配を経て、江戸幕府の直轄地へ。天領化した銀山の発掘量は「世界の3割」を占めるほどに進展したらしいが、すでに17世紀の初めがピークだったらしく、その後採掘量は減少していく。
 江戸中期にはすでにあまり採掘されなくなったと考えられ、銀山として衰退しながらやがて幕末の動乱を迎える(幕府vs.長州藩)。
 明治・昭和年間には銅の採掘を試みたらしいが、結局失敗に終わっており、戦前には銅山としての可能性も完全に閉ざされた。
 ちなみに、中世及び近世における交易上の影響力は言うまでもないが、石見大森周辺の発展にも大きく影響を与えている。その例が温泉津であり、銀山の積出港や交易港として発展した。

 とまあ、ざっくりな感じでw

 時間も時間だったから、とにかく龍源寺間歩を目指して前へ。。。

 ※間歩=坑道

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 天領時代に存在してた関所(+公開処刑場)を通り抜け進んでいくと、荒廃中の寺院が・・。

 豊栄神社(旧長安寺)。

 毛利元就をご身体としていたが(というか、元就自身が木造を安置したらしい)、近世初期には一度荒廃し、幕末に長州藩の大森侵入によって再度復興された。そうして生まれ変わったのが豊栄神社だったが、残念ながら今ではご覧の通り。後で知ったけど、長州藩志士の名前が刻まれているらしい。

 境内は全く手入れされていないし、崩壊している、もしくは崩壊しかけの石灯篭がいくつか点在してた。

 多分集落の人口からいって、復興はおろか維持すらムリなんでしょうね・・。

 歴史あるお寺なのに…荒廃していく姿からは、地元住民のみなさん、さらには遠い昔にこの寺(神社)を拠り所としていた人々の無念さを感じます。

 世界遺産としての石見銀山の整備はまだまだこれから。

 この先、もう一度復興することを祈っています。

 さて、長々しくなってきた(苦笑)先を急ぎましょsweat01

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 途中、永久鉱山遺跡に立寄った。

 
この坑道跡は、元々は龍源寺間歩の水抜き坑として開発されたらしく、元禄・天明年間に手掘りで1400mも掘られた。すでに18世紀後半には製錬練として稼動していた。
 明治から大正、昭和初期に近代的操業を開始するも条件的に振るわず、結局閉山した…との説明があった。

 煙突や窯の跡などは分かったけど、それ以上のことは素人には分からなかった。でも、これだけ広い土地に、諸設備が配置されていたであろう跡や当時のままたたずむ石垣の前にただただ圧倒された。

 存在自体は地味なのかもしれないけど、こういった遺構こそが近代石見銀山の、ひいては近代日本の重要な語り部だと思う。

 雨に打たれ、冷たい風に吹かれる中、やっとこさ龍源寺間歩に到着。

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 不気味といいながらも、ちゃっかりピースしている自分がいた(*´σー`)

 当時の工夫の平均寿命は約30歳くらいだったらしい。

 ここに来るまでに無数の坑口(と坑道)があったけど、どの穴もほんと小さかった。

 ただ埋まってるだけなのかもしれないけど、坑道の中での作業は人ひとりがやっと通れるような道や穴の中での作業と聞くし、当然脱水や換気、坑道の確保などがあって初めて採掘できる。そんな過酷な環境で働いていた工夫を思うと、世界の銀というものがどれだけの犠牲の上に支えられていたのか。

 まあこれはかなり話が逸れるし、ただの愚痴なんだけど、幕末に悪質なメキシコ銀と良質な日本銀とを不等に交換しまくった欧州の貿易家からは、生産者を思う気持ちなんて一切感じられない。

 今も昔も、結局生産者が馬鹿を見るような世の中。何にも生産せず、物を右から左に流すだけで儲かるような仕事が世界中どこにいても偉いし、裕福に生きてるらしい。両者間に優劣なんてあってはいけないのに。そうやって批判する自分も生産者ではないという矛盾。なんだかなあ・・これ以上の格差はほんとに危険だと思う。この先……

 えー話を戻しまして、、、

 当然、工夫らに対する待遇はよかったらしいけど、多くの人の命(寿命)と引き換えに得たことを考えると、なんだか暗ーい気持ちになる・・。

 この暗い気持ちや思い込みが、散策中、あたりの空気を重苦しいものにさせてたのかもしれない。

 今回は数箇所しか回れなかったから、次はじっくり回ってみたいな。

 龍源寺間歩に着いた頃にはあたりはすっかり暗くなってたので、恐る恐る退散。。。

 冷え切った体には温泉!

 というわけで、浜田にあるきんたの里へ。

 つづく

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竹原散策②―雛めぐり

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 2~3月の竹原は「雛めぐり」をやっているらしく、自分たちも雛壇や御殿雛を見てきた。

 まずは松坂邸

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 文政年間(1818年ごろ)の建築物(※明治12年に改築)。

 パンフレットにも書かれてあるように、破風の「てりむくり」が独特で、町の中でも異彩を放ってた。

 破風や格子などの概観も見事だけど、それよりも敷地面積の大きさにびっくり・・(; ・`ω・´)

 この後紹介する森川邸もそうだけど、豪邸っていう言葉がほんとお似合い。

 いろんな部屋があったけど、自分が気に入ったのは以下の個所。

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 数奇屋風の座敷や茶室もどき。

 こんなきれいな便器みたことないし。

 んで、この欄間とすりガラス(+風景)ですよ。しゃれてますなあ(・∀・)

 自分ん家が旧豪商だったらなあ…なんて思いながら、次に向かったのは西方寺

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 同寺の普明閣は、1758年(宝暦8)の建造らしいけど、意外ときれいだった。

 その普明閣からは竹原の町並みが一望できる。

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 遠く向こうに煙突と竹原港が見えます。

 ちなみにさっき紹介した松坂邸はこの寺の正面にあって、どちらからもはっきり見える。

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 敷地がいかに大きいか一目瞭然です。

 時間も時間だったので、急いで町並みを探索。

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 小学生の下校姿は新鮮だったなあ。

 胡堂や頼家ゆかりの春風館復古館、レトロな写真屋さん(営業してる気配はない)を見た後、急いで森川邸へ。。。

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 明治初期の住宅建築で、旧塩田地に1916年(大正5)移築したらしい。

 ほんと素敵なお庭です。

 この光景を見て、すぐインターポットのブッシュを思い浮べた私は病気かも^^;

 松坂邸と同様、こちらも敷地・部屋ともに広くてびっくり。

 格子や欄間、大広間、茶室などいろいろ見所はあったけど、今回は雛祭りの時期なので、気に入った人形たちを紹介。

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 左から、御殿雛。

 もっと立派な御殿雛あったんだけど、とりあえずカメラに残ってたのがこれだったので、これを上げとく。

 顔が真っ赤になってるじいさんは、仕丁(雑用)。後で分かったんだけど、この人酔ってるんじゃなくて怒ってたのか^^

 同じく仕丁(沓台)で、靴を大切に預かっておくのが役目なのに、靴ほったらかしでお酒に興じてる爺さんもいた(笑)撮っちょけばよかったわ。

 そして現代に存在してれば、エキセントリック野郎と蔑まれ、罵られる変な髪形の笛役。

 最後の写真。大人しそうで柔和な表情のお人形さん、自分は好きだなあ(笑)

 そうそう、うちの彼女に激似なお人形さんもw

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 この凛々しい眉毛ビー玉みたいな目がそっくり('∀`)

 あと丸っこさも(ry

 えーっと、、、

 帰り際、頼先生にご挨拶。

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 そういえば、自分の恩師は同じ大学卒で国文出身なんだけど、頼家の子孫で名誉教授の頼祺一先生の授業をとったことがあるって言ってたっけ。

 帰りは結構時間があったもんだから、今度は自分の運転で海岸線経由(吉名~安芸津~安浦…黒瀬~西条)で帰宅。

 さて、今回の日帰りの小々旅行で彼女との旅行はこれでお休み・・。

 卒業旅行はというと…彼女が研修がたくさんあることで日程が限られてる中、友達との日程と丸被りしてしまい、やむなく友達との旅行を優先せざるを得なくなった。

 結果、彼女との卒業旅行はおじゃん

 こんな横暴な自分を許してくれたことに申し訳なくもあり、感謝してます。

 竹原には失礼な表現になるけど、小規模な日帰り旅行ですら楽しめる二人だから、卒業旅行のような大規模なイベントがなくっても、きっとこの先もささいなことで楽しみを共感できるはず。

 今回は友達を優先するけど、次は必ず。。。

 ごめんなさい、そしてありがとう。

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竹原散策①―安芸の小京都

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 竹原に行ってきました。

 あまり下調べもせず急遽向かったので、詳しい解説もできないけど…

 とりあえず紹介を。

 写真をみれば分かるように、、町並み保存地区は江戸時代の町並みがそのまま残ってて、まるでタイムスリップしたかのよう。

 古代竹原は下鴨神社(京都)の荘園だったらしく、近世竹原は塩と酒で栄えたっていうほどだから、瀬戸内海でとれた塩を中心に税を納めてたのかな。

 ただ、本格的に塩田を基礎に発展したのは近世以降ってゆー。

 まあ少なくとも、古代から中世にかけての竹原には、市や年貢積出港が成立していたと思われ。

 そんな古い歴史を持つ竹原に着いて向かった先は、cafe 青

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 「器と書」。

 それがこのお店のテーマらしく、中に入ると器(主に印)や書がズラリ。

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どれも店長さん(♀40代?)の作品らしく、自分も昔書道をやっていたので思わず見入ってしまい、いろいろお話させてもらった( ・ω・)∩

 書道暦20年らしく、作品は行・草が中心。

 店名の「あお」は、「碧」や「青」として店長さんの作品(書)に頻出してきた文字だったらしく、「これしかなかった」らしい。

 最近では印鑑作りにはまっているとのこと。

 ちなみに印の文字は、象形文字みたいなやつ。

 どの作品も秀逸だったけど、印象的だったのはお客さんに対して、来て下さったことに感謝するという趣旨の一文。

 ただ、何て書いてあったかまではっきり覚えてない…〇rz

 余談だけど、私のあだ名(?)も「青」+最近ゆずの「青」が持ち歌になってきたから、不思議な縁を感じてます←かなーり一方的

 さて、すでにランチタイムを過ぎていたにもかかわらず、オーダーを通してくれることに(汗

 自分はカレーを、彼女は青ランチをそれぞれ注文。

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 うまい!(゚∀゚)

 手作り感が前面に出てておいしかった♪ 

 店員や店長さんとお話できるっていいね。

 味・雰囲気・接客(店長さん)すべてに満足でしたhappy01

 腹ごしらえをしたとこで、竹原を代表する商人屋敷や寺院へ。。。

 つづく

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 わーい雪だ。

 南国生まれの自分にとって雪は滅多に降らない、見れないもの。

 だから雪が降るとすっごいテンションが上がるヽ(゚∀゚ )ノ

 それにしても西条は田舎だわ…。

 そういや、日南では全然雪が降らないから、鳥取にある日南町という地域から毎年雪を頂いてたなあ。

 発泡スチロールに敷き詰められた雪をみんなで山分けして、ミニ雪だるまや雪合戦して遊んだ記憶があるconfident

 今思うと恥ずかしいけど、雪を滅多に見ることができない子供にとっちゃワクワクするイベントだったんです。

 まあ、えびのや五ヶ瀬などに行けば雪見れんこともねっちゃけんね^^;

 さて、口頭試問はいよいよ明日。

 終わったらすぐさま修正作業が待ってるeye

 それ以外にも、史料提供者への論文紹介、卒業旅行の詳細詰め、引越しの準備、啓蒙書読み、宮崎帰省ツアーの準備etc...

 い、意外と時間がないってゆー・・(; ・`д・´)

 結構やること詰まってる中、もう一つやりたいのはブログの更新。

 大学四年間の総まとめと題して、過去の旅行(史蹟めぐり)やカープ関連の整理をしておきたいなと。。。

 

回顧録シリーズとして随時アップするぞ ノ

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卒業論文

あけましておめでとうございます(汗 

1月31日14:00すぎ、卒業論文(仮)を提出してきました。

 受付は17:00までだったから、ギリギリものの冷や冷やもの(:.;゚;Д;゚;.:)

 というのも、最後に切り貼り・綴じ込み作業を手伝ってくれた彼女のおかげで思ったより早く完成したってゆー。ほんと助かりましたsweat01

 提出を終えた今、何もやることがないわけじゃないけど、先行研究の整理、史料の解読・分析、図表作成などなど…のプレッシャーがなくなって気持ちが軽い分、すごく寂しい。。。

 この1年ほんときつかったけど楽しかったv

 ただ一方で、限界も感じた。

 僅か1年じゃ大した論文(結論)は書けない

 これはもう仕方ない問題だけど、11月末あたりから時間的な限界が見えてきて、最後は自分が思うような結論(理想)に導けるような方向にシフトしていたことも事実。

 この1年間で一体何か証明できたんだろうか

 時間のせいにしなきゃいけないなんて悔しいなあ。

 こういうわけで、提出できてホッとした一方でもやもや感が残ってるわけです。

 でも実はまだ終わってません。

 15日には口頭試があるし、その後提出した卒論(仮)を修正しなきゃいけない。

 こんげも拘束するのはうちらの専攻だけでしょ(苦笑)

 でも、この厳しい専攻で3年もやってくるとちょっとした愛着もありますね。

 人間的には底辺だけど非常に優秀な先輩たちのこと、尊敬してます。

 毎日毎日朝から晩まで日本史学に打ち込む姿は、多分真似できないや。

 能力的な問題もあるけど、それ以上に何かを捨てないとあそこまで熱中できないと思う。

 食い扶持のない今、そんな危険なことはできないし、全部捨てて熱中することもできない。

 だから、自分は卒業して別の歴史とは全く関係ない道に進むことにした。

 でも、きっと卒業しても歴史は好きなまま。

 自分は自分のできることを。

 「日誌」の翻刻作業をしたい

 こうした形で宮崎に恩返しできるんなら、ぜひ力になりたい。

 史料をデータで再現できれば、分析が非常に楽になること間違いなしb

 この1年どうデータ化していけばいいかすごく苦労したけど、オリジナルなやり方でデータ化することができた。

 その経験を生かして、後々作業しやすいデータベースモデルの提示もできるといいな。

 宮崎県の大正期を研究する後輩が出てくるまでには。。。

 

 さて、その卒論を書く事ができたのも史料があったから。

 史料調査に協力して下さった関係者のみなさまには、ほんと感謝の言葉しかありません。

 おそらく次の帰省が最後かな。

 もう当分帰れない。

 関係者のみなさまの下へお礼しに行かなきゃへ(へ´∀`)へ

 卒論(完)を提出するまであと2週間くらい。

 最後まで粘ってやる....φ(・ω・` )

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