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山陰旅行①―出雲大社と石見銀山

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 今月8、9日に山陰へ男3人で旅行してきました。

 最近気になっていた山陰地方への進出だったから、かなりワクワクしていたのに、まさか焼肉屋さん(3日)にデジカメを忘れてたなんて・・。

 置き忘れて4日も経ってたのに気づかなかった自分が悪い…〇rz

 というわけで、写真は友達の一人からちょうだいしたもの。

 友達は二人ともパシャパシャ撮らないせいか、欲しいとこの写真が抜けてたりw

 でも、その分自分が所々登場してるし、要所々々の写真は頂けたので、ありがたく活用させてもらい、細部は写メと文章でどんげかします ノ

  ※二日とも天気が悪かったので多少修正・掲載

 さて、西条から車を飛ばすこと約3時間半。

 出雲に到着rvcar

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 出雲そばを食べたあと、出雲大社へ。

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 大正年間に作られた巨大な鳥居をくぐり、松の木が立ち並ぶ参道を進んでいくと、ようやく大社の入り口が出現。

 大社にたどり着いて重要なことに気づく。

 まさかの改修中w

 どんだけついてないんだ・・。

 これで改修に立ち会ったのは、銀閣、八坂神社、姫路城に続く四件目。

 仮御殿で初詣を済ませ、おみくじを引いてみた。

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 結果はご覧のとおり。

 「何事もほどほど」

 何か自分の人生を表してるようでやだなあ(´・ω・`)

 本殿が見れなかったのは残念だったけど、注連縄の迫力を間近で拝めたし満足です。

 改修が終わったらまた行こ。

 大社を出て、なんとなーく脇道へ向かう三人。

 するとそこには稲荷社が!!

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 都稲荷社

 どうですか、この朽ちっぷりw

 大学3年の夏に奇妙な(というか粗末な)稲荷神社に会って以来、すっかり粗末な稲荷神社に興味を持つようになった自分たちにとってはかなりおいしいスポットでしたb

 写真はないけど、お世辞にも清潔さは感じられない。

 一番奇異に感じたのは、拝殿の後方に首なし狐が無数にちりばめられてある光景。

 実は、出雲大社付近にはいくつか稲荷社が存在しているらしく、ここはその一つだとか。

 出雲大社付近の稲荷社の中でも由緒はあるらしいのに、誰も来ないし、清潔さはないしで残念な感じ。 

 その後、古代出雲歴史博物館に約1時間立ち寄り、次に向かった先は世界遺産に登録されて間もない石見銀山

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 曇天から雨天へと変わり、着いた時点ですでに4時半。

 唯一見学できる龍源寺間歩(まぶ)にはは入れなかったけど、それでも入り口まで進むことに。。。

 天候のせいかもしれないけど、着いて少し歩き出しただけで急に寒気がした・・。

 寒かっただけかもしれないけど、ものっすごく不気味な感じがして息苦しかった。

 暗かったし運動不足のせいだったのかもしれないけど、ほんと不気味不気味で……(ry

 あの静まり返った銀山(大森)集落の不気味さは、思い出すだけで恐ろしい…。

 その石見銀山は結構知られてると思うので、簡潔な紹介にとどめておきます。

 鎌倉末期に発見されたらしく、大内→尼子→毛利→毛利・豊臣の支配を経て、江戸幕府の直轄地へ。天領化した銀山の発掘量は「世界の3割」を占めるほどに進展したらしいが、すでに17世紀の初めがピークだったらしく、その後採掘量は減少していく。
 江戸中期にはすでにあまり採掘されなくなったと考えられ、銀山として衰退しながらやがて幕末の動乱を迎える(幕府vs.長州藩)。
 明治・昭和年間には銅の採掘を試みたらしいが、結局失敗に終わっており、戦前には銅山としての可能性も完全に閉ざされた。
 ちなみに、中世及び近世における交易上の影響力は言うまでもないが、石見大森周辺の発展にも大きく影響を与えている。その例が温泉津であり、銀山の積出港や交易港として発展した。

 とまあ、ざっくりな感じでw

 時間も時間だったから、とにかく龍源寺間歩を目指して前へ。。。

 ※間歩=坑道

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 天領時代に存在してた関所(+公開処刑場)を通り抜け進んでいくと、荒廃中の寺院が・・。

 豊栄神社(旧長安寺)。

 毛利元就をご身体としていたが(というか、元就自身が木造を安置したらしい)、近世初期には一度荒廃し、幕末に長州藩の大森侵入によって再度復興された。そうして生まれ変わったのが豊栄神社だったが、残念ながら今ではご覧の通り。後で知ったけど、長州藩志士の名前が刻まれているらしい。

 境内は全く手入れされていないし、崩壊している、もしくは崩壊しかけの石灯篭がいくつか点在してた。

 多分集落の人口からいって、復興はおろか維持すらムリなんでしょうね・・。

 歴史あるお寺なのに…荒廃していく姿からは、地元住民のみなさん、さらには遠い昔にこの寺(神社)を拠り所としていた人々の無念さを感じます。

 世界遺産としての石見銀山の整備はまだまだこれから。

 この先、もう一度復興することを祈っています。

 さて、長々しくなってきた(苦笑)先を急ぎましょsweat01

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 途中、永久鉱山遺跡に立寄った。

 
この坑道跡は、元々は龍源寺間歩の水抜き坑として開発されたらしく、元禄・天明年間に手掘りで1400mも掘られた。すでに18世紀後半には製錬練として稼動していた。
 明治から大正、昭和初期に近代的操業を開始するも条件的に振るわず、結局閉山した…との説明があった。

 煙突や窯の跡などは分かったけど、それ以上のことは素人には分からなかった。でも、これだけ広い土地に、諸設備が配置されていたであろう跡や当時のままたたずむ石垣の前にただただ圧倒された。

 存在自体は地味なのかもしれないけど、こういった遺構こそが近代石見銀山の、ひいては近代日本の重要な語り部だと思う。

 雨に打たれ、冷たい風に吹かれる中、やっとこさ龍源寺間歩に到着。

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 不気味といいながらも、ちゃっかりピースしている自分がいた(*´σー`)

 当時の工夫の平均寿命は約30歳くらいだったらしい。

 ここに来るまでに無数の坑口(と坑道)があったけど、どの穴もほんと小さかった。

 ただ埋まってるだけなのかもしれないけど、坑道の中での作業は人ひとりがやっと通れるような道や穴の中での作業と聞くし、当然脱水や換気、坑道の確保などがあって初めて採掘できる。そんな過酷な環境で働いていた工夫を思うと、世界の銀というものがどれだけの犠牲の上に支えられていたのか。

 まあこれはかなり話が逸れるし、ただの愚痴なんだけど、幕末に悪質なメキシコ銀と良質な日本銀とを不等に交換しまくった欧州の貿易家からは、生産者を思う気持ちなんて一切感じられない。

 今も昔も、結局生産者が馬鹿を見るような世の中。何にも生産せず、物を右から左に流すだけで儲かるような仕事が世界中どこにいても偉いし、裕福に生きてるらしい。両者間に優劣なんてあってはいけないのに。そうやって批判する自分も生産者ではないという矛盾。なんだかなあ・・これ以上の格差はほんとに危険だと思う。この先……

 えー話を戻しまして、、、

 当然、工夫らに対する待遇はよかったらしいけど、多くの人の命(寿命)と引き換えに得たことを考えると、なんだか暗ーい気持ちになる・・。

 この暗い気持ちや思い込みが、散策中、あたりの空気を重苦しいものにさせてたのかもしれない。

 今回は数箇所しか回れなかったから、次はじっくり回ってみたいな。

 龍源寺間歩に着いた頃にはあたりはすっかり暗くなってたので、恐る恐る退散。。。

 冷え切った体には温泉!

 というわけで、浜田にあるきんたの里へ。

 つづく

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