« 45 bis“あわ” | トップページ | 「ジテツウ」の仲間入り »

五回目の原爆投下の日

 仕事帰りに平和公園に寄った。

 もちろん、平和を祈りに行くためなんかじゃない。

 自分が毎年6日に出向くのは、凄惨な過去を忘れないため。

 そして、犠牲に遭われた方々のご冥福を祈るため。

 今日は仕事で本川小には行けなかったから、代わりに公園内をゆっくり一周して帰った。

 すれ違う人たちの表情はみな笑顔。

 みんな何を想って公園に集まってくるんだろ。。。

 iPodを外して物思いにふけながら歩いてると、だんだん胸が痛くなってくる…。

 正確にいえば、今月に入ってから胸がつまるような想いがする。

 6日が近づくとどうしてもそうなる。

 犠牲者の方の無念さがそうさせる。

 一方で、奇跡的に生き延びることができた犠牲者の方々。

 彼らは、今の広島をどうみているのかな。

 堅く口を閉ざす犠牲者の方々に対して、自分らは軽々しく「後世に伝えたい」「知りたい」から「聞きたい」など言えない。

 もう66年も昔のことなのに、彼らは思い出す度に沈黙し、涙を見せる。

 もう66年も経ったのに涙が枯れないなんて、どれだけ悲惨な状況だったんだろう…。

 亡くなった方々の無念を想うだけで胸が痛いのに、生き残った方々の心中まで考え出すともう…。

 毎年そう想いながら平和公園に行く。

 そうそう、話は逸れるけど、、、

 去年まで原爆ドームや平和公園に行く機会は、年に数回だった。

 でも、今は早朝出勤(=チャリで45分)や本通りに買い物しに行くときに必ず通るようになった。

 実は、今朝も公園内を横切って原爆ドームを見て通勤していた。

 広島に初めて来たときに行った原爆ドームが、まさか数年後には通勤ルートになっているなんて・・。

 ちなみに、通勤先=会社は被曝後の市内に初めて作られた建築物らしい。

 すさまじい人間力というか、エネルギーを感じる。

 すごいや。

 何やら上手く言い表せないけど、自分は広島と結び付く運命にあった気がしてならない。

 さて、今では身近な存在になった原爆ドームと平和公園。

 平和公園は元々中島町などいくつかの町があったことは周知の通り。

 昭和前後までの間、広島の顔だったのは八丁堀や紙屋町ではなく、中島町界隈だった。

 なぜなら、そこには旧山陽道が通っていたから。

 つまり、鉄道が発達するまでの間、広島の顔といえば今の平和公園がある場所だった。

 ちなみに、自分ん家の側の道路は旧山陽道。

 なので、平和公園や本通り方面に行く時は、この旧山陽道を利用している。

 まあ道路の話はあれとしても、中島町界隈が持っていた歴史は半世紀ちょい前に一瞬にして消されてしまった。

 原爆(アメリカ)は、人や物だけでなく、歴史や文化までも奪った。

 それが66年前の今日だった。

 そんなことを考えるだけで頭や胸が痛くなり、どうしようもできないから途方に暮れてしまう。

 それが毎年繰り返される。

 来年もきっと同じこと思ってるだろなあ。

|

« 45 bis“あわ” | トップページ | 「ジテツウ」の仲間入り »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1176376/41111647

この記事へのトラックバック一覧です: 五回目の原爆投下の日:

« 45 bis“あわ” | トップページ | 「ジテツウ」の仲間入り »